町別交流懇談会 大熊町民交流会 ~ みんなに会いたい!大熊町 ~ 開催報告
※昨年10月17日開催に続く第2回目です。
- 場所:かながわ県民センター2階ホール
- 主催:かながわ東日本大震災県内避難者支援ネットワーク
- 協力:かながわ「福島応援」プロジェクト(kfop)
- 出席:避難者16名、福島県職員2名、大熊町職員1名
お天気が良く、とても暖かい日でした。
開場は、同じ地域の方が懇談できるよう、地域を3つのテーブルに分けました。
開会前には、震災前の大熊町の映像(三ツ森自然公園、夢探検ウォーキング、うつくしまYOSAKOI果樹園通りなど)が流れました。
★— 司会・主催挨拶 —★
・司会挨拶(坂本さん:富岡町からの避難者)
・主催挨拶(高坂さん:かながわ東日本大震災県内避難者支援ネットワーク)
・協力挨拶
渡辺さん:かながわ「福島応援」プロジェクト kfop 代表
「2年ぶりに花見山公園が開放されます。(kfopの花見山公園における活動)
私も福島出身で福島を応援しています。どうぞ宜しくお願いします。」
★— 大熊町の現状 —★
震災により11名の方が尊命を亡 くされ、1名の方が依然として行方不明です。また、発災以降本日まで、原発事故によ る避難中に211名の方々がお亡くなりになられました。
町の要望: 帰還の基準 原発事故の収束・除染 住民意向調査(平成25年3月15日)
区域編成: 大熊町の区域見直し後の概念図(H24.11.30現在)
空間線量: 町内の放射線量(平成24年11月測定分)
※3区域の定義
・帰還困難区域 50mSV以上/年
・居住制限区域 20~50mSV未満/年
・避難指示解除準備区域 20mSV未満/年
※タブレット型の情報端末の配布
町からの情報をリアルタイムで得られるよう無償で配布(貸与)する。
町民同士のきずなの再生を図る事を目的にテレビ電話ができる
★— 交流・懇談 —★
県職員さん、役場職員さんが各テーブルでともに歓談しました。
今回は映像の鑑賞を省き、終了時間も少々の延長が可能となり、懇談の時間をゆっく
りとる事ができました。
写真を多数お持ち下さった方がいらして、皆さんが非常に興味深く話に聞き入ってい
ました。除染の方法に関しては具体的な方法についての情報交換もされていました。
皆さんがふるさとやそれぞれの自宅を想い、現況や復興計画と照らし、果たして帰還
出来るのか、この先の生活はどうなるのか判断するための情報を必要としていると感
じました。
震災当時から今までを振り返るお話も多数ありました。
★— 今後の取り組み —★
「第2回ふるさとコミュニティinかながわ」3月9日(土)「波止場会館」にて開催。
司会の坂本さんから次の呼びかけがありました。
・ふるさとコミュニティinかながわを一緒に企画運営しませんか?
・今後の交流会開催をお手伝い下さる方、閉会後にお声かけ下さい。
・弁護士よろず相談会併設のサロンに出席予定です。いらして下さい。
~ 開催を終えて 声・メッセージ ~
★— 懇談中のメモ(一部紹介) —★
◎放射能・除染・賠償
地表を10㎝削ると10μまで減る。けれども山から新たに放射能がきてしまう。
山の中、土に浸みている。緑化のためにも全部除去することは難しい。
中間貯蔵施設が出来るまで残土はそのまま。果たして全て処理できるか?
除染は大熊のモデル地区のみやっていて、全体も成功するのかも判らない。
住宅地はどの程度効果があるか判らない。個人の家の中の除染は全く不明未定。
賠償の書類がきた。提出した人、まだ考えている人います。
◎住居
借り上げ制度の情報が交錯。あと4年延長と思い始めている。
借り上げ延長後の見通しが立たない。生活をセーブしてしまう。
マンションには慣れず一戸建て希望が多いが土地が無いので進まず。
また仮設移動してと言われるとしんどい。抽選で決めるのも考えものだ。
仮設に入ると仕事が見つからない(足が無い)。
高齢住宅の仮設は、交通の便が悪い所は通院に困る。
ジャンボタクシーの利用が少ない。予算がつかなくなる。
何処までいっても仮住まいは仮住まいという現実。
◎帰還
工業団地のあたりを削って町を作れないのか?
仮の町といわき市との兼ね合いはどうなんだろう。
公営住宅が遅れている。調査調整に時間がかかっている。
5年では町に帰れないらしい…困った!
戻そう戻そうと行政はしているけど、若い人達は戻れないし戻らない。
帰還の見込みがあるか議論が進んでいない。早く国が買い取り国有地にして。
◎一時帰宅
土地の雑草に困る。一時帰宅の時に除草剤を撒く。草は毎年生える。
お墓は放射能が強くて直せない。
一時帰宅する気持ちになれない。荒れ果てた我が家の内部を見たくない。
◎現在の生活
補償問題・二重ローン問題・家族は別々の二重生活。
場所が解らず人に聞きながらやっと着いた。
ネットで息子が乗り換え方を調べてくれるので来られる。
家族から離れて横浜にいる。膝の手術の後避難所にいて悪化してしまった。
5か所移動してなんとか持病の治療継続できた。今は+他の症状も出て困った。
弱った身体。3/11後で集中力がぐっと減った。
車中心の生活から現在は自転車の生活。大したことのないことだけど苦痛がある。
支援のバラツキがあり不公平感
色々な書類がきて、対応するのが大変。
◎現在の心境
同じ被災地の中でも各町々で、微妙な感情の壁がある。
お互いが被災民で、賠償を貰っていたり貰っていなかったり不満がつのる。
何時までこの状態が続くのか?家具や生活道具も買い控えてしまう。
帰れるものなら帰りたい。先行き見えない不安・不信
3.11のことを忘れたいけど忘れられない。関連のTVを見るとイライラする。
涙もろくなって話をすると涙が出てくる。
今でも震災当時の事を思い出して眠れない時がある。
子供たちのふるさとが無くなってしまったことが残念。
大熊町しか知らなかった。この年で大都会で暮らすとは!
田んぼと畑を見るとホーッとする。
直接きつい言葉を言われた訳ではないが、被災当時と今は違うことを感じる。時間が
経つにつれ、周囲の対応が冷たくなっていくのが判る。
2年経ち、やっと気持ちを新たに。おしゃれをする気になった。
横浜や東京に来て、水を買うなんて信じられない。
◎交流
横浜市旭区の光が丘住宅で「ふるさとクラブ」の活動を始めました。
前回の交流会に来た人と連絡が取りあえるので話が出来る。
大熊町の交流会なので誰かに会えるのかと思ってきてみた。
顔見知りが来ると言うことで参加した。会えずに残念。知り合いの消息を話し合う。
孤立をどうやって防ぐのか?
少しずつだけど町民同志の集まり、サークルにも参加することが出来た。
まとまった部落だったのに皆がバラバラになった。今の願いは皆に会って話したい
今でも田村市の住民と交流がある。
同窓会が会津である。神奈川や多くの人々が支援してくれていることを伝えたい。
仕事があり中々平日は来られない。でも休むのもいい。
◎震災時
津波は公民館と神社の所で止まった。松の木にぶら下がって助かった。
地震直後低い土地の公民館に集まった。その時再び川が増水して津波に追われた。
津波は壁が押し寄せて迫ってくるようだった。
津波を見た時には、自分の家はもう駄目だと思った。
田んぼは湖になり、車を流されていた。
神社の杉の木につかまって助かった人もいた。
双葉精神科がかわいそうだった。胸が痛い。
なんで爆発するんだって思った。私ら何処へ行ったらいいのって思った。
役場が避難用のバスを手配した。水、食料が配られた。
車のある人はいろんなものを持って逃げた。バスの人は何も持ちだせなかった。
大型バスが来たので運転手に行先を聞いたら「解らない」と答えた。
一般住民がまだ何も知らずにいた時、社宅が空になっていた。
3.11の夕方スーパーに行っても閉店だったり、品切れだった。
食べ物は菓子パンと水。被災してみて、終戦後の引揚者は大変だったと思った。
避難所から毛布は持って出られない。置いて行ったのを他者が使った。
物資が届くのが遅くて避難所を出る頃に届いた。
1日遅れの福島民報新聞が届くのが楽しみだった。爆発後のを全部保存してある。
一番困ったのはトイレと電話。朝汲み取りに来ても夕方にはいっぱいになった。
避難所にいた時、お風呂を貸してくれた方と今も連絡し合っている。
震災の時は身内だけでなく、助け合うことが大切だ。
息子の家でしばらく避難。イビキがひどいと息子に怒られ仮設に行った。
車、傷つけられた。報道の仕方も良くない。
車にイタズラされたり、ゴミの事もあり地域ごとにもめてきている。
病院で被災者の話をしたら隣の席の人が、放射能を恐れてか顔色を変えて席を立っ
た。涙が出るほど悲しかった。
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